祈りについて(音声版・テキスト版)

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■しみじみと

祈りについて、相談者の方と話すことがあります。祈りについて。宗教的な意味合いはそこには全くありません。純粋に、カウンセリングという場での、普通でない(しかしカウンセリング的には普通の?)祈りについて考えましょう。なんだかややこしい話でスタートしました。読者の方々を煙にまこうとしているわけではありませんが、祈りについて始めようとすると、こんなモノ言いになってしまうのです。

直球で言うならば、カウンセリングの場においての祈りとは、相手に対してのしみじみとした感覚のような気がします。これはカウンセリングをしているときに、カウンセラーが相手に対して感じる感覚のことです。しみじみとした感覚――これは表現になっているようではあるが、なんだか分かりませんね。いまこの時点では、そのように思っています。それは他の言い方も可能でしょう。しかし、この感覚が常にベースにあることは確かです。

しみじみする、という行為を思い出してください。しみじみしているときってどんな感情でしょうか。少なくとも、不安や怒りや恐怖があるときは、しみじみとはしないですね。深々と降る雪という表現があります。深々と、という言葉は、ひっそりと静まり返っている状態を表します。英語ではdeepとか言うのでしょうか。この深々とした状態にいるときに懐かしさのようなものが混じってくると、しみじみとした情感になるのでしょうか。たぶんそれは懐かしさだけではないと思いますが、いまはそのように定義しておきます。

■祈りは共感なのか

相手に対してしみじみとしているときは、少なくとも否定する立場には立っていません。むしろ肯定する立場です。共感ともいえるでしょう。では共感が祈りなのか。確かに共感も含まれるものでしょう。祈りの一部と言えます。いや、祈りが共感の一部なのか。どっちなのか。

カウンセリングの場での祈りとは、相談者の人がこうなったらいいなとか、回復してくれたらいいなとか、相手に対しての期待を願うということではありません。それは祈りとはちょっと違う。期待とか願いとかは、祈りとは言えません。カウンセラーというものは、そもそも相談者へ対しては、期待や願いというものは持たないように訓練されるので、それとは違います。期待や願いを持っていたとしたら、相談者はしだいに話ができなくなっていくでしょう。カウンセラーの期待に添えない自分を責め出すからです。だから、祈りとは、カウンセラーの期待や願いではありません。

回復してくれたらいいな、というカウンセラーの思いも、それはそれで相談者の負担になるものです。かといって、回復を願っていないわけではありません。それが相談の目的でもあり、そのために何年もカウンセリングへ通ってきていただいているわけですから。強いて言えば、回復を前面には出さないということでしょうか。気が付いたら、結果的にみたら回復してきているね、という感じです。回復は結果の一つにすぎない。それを目的化しているわけではない。目指すわけではなく、気が付くと結果的に回復していた、という感じ。そういう状態で回復していくなら、後戻りはしません。

■一生懸命がんばる楽しみ

結果を求めることが、プライベートでも仕事でも、現代はそういう流れになりやすいです。そのほうが分かりやすいからですね。数字で出たほうが、エビデンスで分かるほうが皆が納得するので、勢いそちらへ流れやすい。しかし、生きるとかカウンセリングで回復することは、結果を出すことではありません。結果は目的とも言えますが、目的を求めすぎて、それが得られなかった場合はどうすればいいのか。軌道修正して目的を求め続けるのか。これはなんだかバベルの塔を築いていくような話に聞こえてしまいます。

勝つ楽しみを教えていると、スポーツ選手としてダメになる、一流にはなれないといいます。日本のスポーツが弱いのはこのためだと言われています。勝つという結果は、プロになるためには本当に大切なことではない、ということらしいです。プロになるための姿勢(マインドセット=こころの在り方)は、別なところにある。これはスポーツに限ったことだけではありません。治療の場面でも同じことが言えます。

プロのマインドセットは何かというと、それは勝つことが楽しいのではなく、一生懸命やることへの楽しみです。頑張ってやることはスッキリとして気持ちいいな、そういう感覚でやることらしいです。この感覚をスポーツでは、フローとかゾーンとか言います。ゾーンに入るとか聞いたことがあるかと思います。パチンコなら大当たりが連続で出る状態。あれがプロになるためには必要なんですね。

結果的にみたら回復してきたね、とは、では何を目指した結果、回復したのか。それは、まぎれもない自分というものが見えるようになることを目指しています。自分を分かること、それが回復への道程です。幾重にも何十にも重なった自分を見ていくことです。その結果が回復なのです。自分を修正することではありません。自分を見ることです。

少し話しはズレますが、期待というものを知らない人もいます。少し奇妙に聞こえるかもしれませんが、そのように聞こえた人は、期待を知っている人です。期待を知っているということは、それだけで大きなリソースなのです。しかし期待を知らない人もいる。そのような人には、期待というものはどういうものなのか、積極的にフィードバックすることがあります。その声かけの1つが「良かったね。」それは良かったと思っていいことなんだよ、というメッセージです。その繰り返しの中で、期待を知らなかった人は、期待とは何であるかを体験していきます。この話は、祈りとはズレますので、このへんにしておきましょう。

■稜線を歩く

しかし、体験的に、期待や望みというものは、生きる糧でもあるわけです。それは皆、体験を通して知っています。人生も後半にさしかかった人々は、遠くの空を見ながら思いにふけることがあります。持ち続けていく望み、捨てていく望み、両方あるなと。彼方を見ながら思います。むなしくてやりきれない中で、そのように、捨てるものと持ち続けていくものとの選択を迫られる時期が、誰にもあります。

何故こんなにむなしいのか。そういう気持ちが浮かんでは消えて、また浮かぶ。その反芻の中で、悶々とする、鬱々とする。考えただけでも落ち込むような状況ですが、そのエッジ、境界を歩いていく時期があります。山に例えると、稜線ともいえます。あっちでもこっちでもないエッジを歩く時期があるのです。その一つの大きなハードルが人生の後半過ぎた辺りにやってきます。

自殺をしたミュージシャンの加藤和彦の絶望感も同じようなものだったのでしょうか。諦めと諦めきれないに狭間(はざま)の虚空に落ち込んでしまった結果だったのでしょうか。彼は若い頃、悲しくてやりきれないという唄を歌っています。作詞はサトウハチローです。20代そこそこの頃の悲しみと、60代になった彼の悲しみは当然違うものです。若い頃を懐かしんで感傷に浸っていたわけではないでしょう。彼の心情の深いところは分かりませんが、望みのようなものが祈りへ変わっていくときに、どこかこころの深い森に迷い込んでしまって、出口を見失ってしまったのでしょうか。

そのような危うさを通っていかないと祈りにはたどり着けないものなのか。何かが祈りへ昇華するときは、そのような場所を必ず通るように思います。それは、相談者もそうだし、カウンセラーもそうなのです。白状してしまえば、カウンセラーは、危うい世界と隣り合わせになることがあるのです。「その世界」へ迷い込んでしまう分岐に知らずしらずのうちに立たされて、気がつくとそちらへ歩いていってしまっていることに気がつくことがあります。そうなったとしても、後戻りや中断はできないので、そちらへ進んでいくしかないのですが、それはそれは、ある意味、カウンセラーの冒険譚が始まっているのです。そこを抜けるまでは、毎回のセッションが To be continued の様相を呈してくるのです。それは気が抜けないということ。相談者のためにも気が抜けないし、カウンセラー自身のためにも気が抜けないのです。

■ハードボイルド

カウンセラーは、自分の冒険譚を経由しないと祈りにつくことができないのかもしれない、という話をしました。いったいその冒険譚とは何なのでしょうか。相談者とカウンセラーという表面的な関係では、普通のカウンセリングが繰り広げられています。そこには何の違和感もありません。カウンセラーとしてはいつもの通常のことをやっているだけです。自分が長期に渡って習得してきたカウンセリング技法を使って、粛々とカウンセリングを続けているだけです。ですから、相談者から見ても、それをスーパーバイザーが見ていたとしても、そのカウンセリングには何か別のものが進行しているようには見えません。

しかし、祈りへ移行するには、カウンセラーが危険な冒険譚を経験している必要があると申し上げました。うまり、カウンセリングの「裏側」では、そのような冒険譚が進行しているのです。そして、それは単なる物語ではない、冒険譚なのです。私は最近、この冒険譚のことを、ハードボイルドと呼んだりしています。「ハードボイルドで行こう」という感じです。

村上春樹の4作目「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」という小説、私は、このタイトルについたハードボイルドという言葉の意味を、それほどは噛みしめてはいませんでした。この小説が出たのは1980年代の中頃で、バブル景気に火がつく直前でした。もう30年以上経ちますが、最近、彼のいうであろう「ハードボイルド」という意味を噛みしめるようになっています。20代の終わりに読んだこの小説が、60代の今、また自分の中に立ち現れようとしています。あの小説のようなスピリットに満ちた冒険譚が、カウンセラーのこころの中で進行していくのです。小説を読んだことのない人は、映画マトリックスを想像してみてください。あれも同じハードボイルドでしょう。

ハードボイルドというのは実に奥が深いかもしれません。しみじみとした情感が出てくるには、ハードボイルドな世界を通過していく必要があるのでしょうか。村上春樹が「世界の終わり・・・」で目指したハードボイルドとは?

20代の前半、私はレイモンド・チャンドラーを読んでいました。主人公は私立探偵フィリップ・マーロウ。当時は、ハードボイルドとは、やせ我慢のことだと思っていました。やせ我慢してキザなセリフを吐いているのだと思っていました。若かった当時、あの頃の私は、ずいぶんとやせ我慢をしていたように思います。やせ我慢をしてマーロウを気取っていた。やせ我慢しないと抑えられない感情があったからです。チャンドラーといえば、このセリフです。

強くなければ生きられない。やさしくなければ生きる資格がない。

ハードボイルドは、やせ我慢をしているマッチョの話だと、ずっと思っていましたが、それは誤解でした。(でも若いときはそれでいいのです。それ以外分からないから。)やせ我慢しているようではハードボイルド的には生きられないんですね。そこには滲み出てくるものが必要なのです。しみじみとした情感も、同じように滲み出てくるもの。いぶし銀、という言葉がありますが。ハードボイルドも、しみじみとした情感も、いぶし銀なのです。何かのノウハウややり方や演技などではないのです。長年の年月をかけて熟成されたウヰスキーのようなもの。それこそハードボイルドですね。

そのような熟成を通って、しみじみとした情感が出てくる。私の場合、そこまで感じるには30年余の時間がかかったわけです。人によってはもっと早く到達できる人もいるでしょう。その時間の差は、人の個性の差、こころにどのような熟成させるための「樽」を持っているか、ということでしょう。

樽によってウヰスキーは熟成度合も味も変わります。しかし、どんな樽であっても熟成が進むことには代わりはありません。30年モノ、40年モノのウヰスキーの味は格別です。何かと比較すること自体おこがましい。それだけで立っているものです。際立つ味と風味がある。それはウヰスキーの人生そのもの。時間をかけて、風化させたものと熟成したものが微妙に入り混じっています。先にエッジを歩く時期の話をしましたが、ウヰスキーもそういう時期を通り抜けて、格別の風味に到達するのでしょう。人もウヰスキーも同じ部分があります。

■薄っすらと、このままでいこうね

ウヰスキーが到達するものが格別の風味だとしたら、人が到達するのは祈りです。祈りとは、カウンセラー側が持つ相手へのしみじみとした感情でした。そこには、相談者がこうなってほしいという願望はありません。もっとシンプルな思いです。「この人は、こうなんだな」というしみじみとした思い。それを肯定も否定もせずに、感じ続けている。ウヰスキーの例えでいうなら、サントリーの名コピーがあります。「足しもせず、引きもせず。」まさにこのコピーのような心境ですね。しみじみと、「この人は、こうなんだな。」

「この人は、こうなんだな。」の次には、「このままで行こうね。」というものが薄っすらとあります。「このままで行こうね。」そこには「こうなればいい。」という期待も、引っ張りもありません。これは受容ということですが、「このままで行こうね。」なんて、なかなか言えませんし思えません。しかし、まずはそこまで受容する。ここまではカウンセリングの定型です。「このままで」というところまでは、カウンセリングを勉強して実践していく中で獲得していける心境だと思います。

それが「薄っすらとしている」というのが、祈りの真骨頂なのでしょう。おそらく。今はそう思います。「このままで行こうね。」というものカウンセラーの期待であると、言えなくもありません。そこも消していく。「こうなろうね。」がまず消えて、「このままで行こうね。」が次に消えます。消えるというか、消えそうになります。この辺が「祈り」ということなのではないでしょうか。薄い彼方のほうの記憶として、なんとなく「このままでいい」というのが漂っているような。そのはかなさは、雨上がりの雲が切れて、薄っすらと太陽が見え出した辺りの話になるのでしょうか。

■ジョルジュの祈り

フランスの哲学者、ジョルジュ・プーレはこう言っています。(人間的時間の研究 第15章 フローベールのIII)

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十年前、ぼくはそこにいたのだったな。--そう思っただけで、ぼくはもう本当にそこにいて、往時と同じ思いにふけっている。いっさいの隔たりは忘れ去られてしまう。が、やがて、その隔たりが姿を現してくるのです、虚無の渦巻く大深淵のように。

感覚の、あるいは思い出の対象に自我を没入させたときの動きとはちょうど逆の動きである。かつて没入の際は、「おまえと対象とのあいだの隔たりは、深淵が両側の縁を近づけていくようにだんだんに縮まり、ついにはその違いが消えうせるほどになった・・・」今や、この同じ隔たりが姿を現し、この同じ違いが顕著になってゆく。
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プーレはここで、ある自己と、また違う自己とが交代しているような感じを言っています。通常は深い深淵、隔たりがあるけれど、その深淵が深淵部で折れ曲がって、端と端がくっつくとあたかも、かつてと今が同じ時間の中にあるように感じられる。ロケットが時空を越えてワープするときのような理論です。この感覚は、実は解離なのですが、先に話した「薄っすらとしている」というのは、このような時間の中で、忘れ去られていく過去のようなものなのでしょう。解離が元へ戻ろうとしているとき、このような薄っすらとした感覚になるのでしょう。

あえて、解離を引き合いに出す必要もないかと思いますが、何かないかと思って調べてみたらプーレが出てきただけのことです。この本は面白い表現がたくさんあり、記憶と時間についてなかなかユニークな表現が得られます。

ヴァレリーの章では、「過去はまったく心的なものである。それは映像と確信に過ぎない。」とか。この言葉からはPTSDについての秘密が引き出され得る可能性もあります。哲学というのは面白いですね。心理学と近接領域にありながら、それよりも自由な感じです。何でもありの世界とも言えます。それだけに、希望もあるし火傷もするし。火傷しないために、ファンタジーとして哲学を読む姿勢も必要なときがあるのでしょう。

プーレのことを、すかしっ屁のようなものだと評している人がいました。彼の話は、それが終わったあとの余韻のようなものが漂っている、まるで、すかしっ屁だ、と。なるほど、上手い表現と思いました。屁に例えられた哲学者としてはどういう気分かは分かりませんが、消えるか消えないかのような余韻の中での思考を彼はしようとしているのでしょう。これはまさに祈りのことを書こうとしている私と重なってくるのでしょうか。祈りも屁のようなものだ、と。こう書くと、なんだか良い感じはしないですね(笑)。哲学的に考えたら、ということです。でもそれも哲学を下げているようで、このへんで止めておきます。

■薄い絆を発見し再生すること

「この人は、こうなんだな。」そして薄っすらと「このままで行こうね。」しみじみとした情感の中でこれを感じている。

これが祈りの本質と書きました。いまのところの。共感した先に、こういう感情がカウンセラーの中で産まれてくると、カウンセリングは、手を放していても進むはずのところへ進んでいくのでしょう。カウンセリングでは、むしろ手を放さないといけない時期が必ずやってきます。それを助けてくれるのが、カウンセラーの中へ生まれてくる、相談者へのしみじみとした情感=祈りと言えるのではないでしょうか。

カウンセラーがカウンセリングへ入る前は、色々と緊張しています。そしてカウンセリングがうまくいけばいいな、と毎回思います。神さま、お願いします、カウンセリングがうまくいきますように。確かにそんな心細い思いをしながら、毎回相談者の人に向かっているのがカウンセラーです。正直なところそんな現世利益的な祈りも、カウンセラーはします。しかし、それはここで話してきたような祈りとは別物です。神さまお願い・・・は、願いです。祈りは願いではありませんでした。そういうことをこのシリーズを通してお伝えしました。

ここまで相談者との関係性がコナレてくると、カウンセリングもやりやすくなります。毎回そうはならなくとも、この人としみじみなれるかなと思いながら、カウンセリングルームの扉を開けて入ってくる人々を迎い入れています。そのような関係になれると、例えカウンセリングが終了しても、その関係性は切れることはないように思います。それによって、また新たな問題でやってくることもあるし、やってこないにしても手紙をいただいたりします。それはまぎれもなく、脈々と続く絆のようなものに後押しされているのでしょう。祈りとは、そのような資質を持ったものなのでしょう。

カウンセリングにやってくる人は絆の薄い人が多いです。カウンセラーの祈りは、相談者の人がそのような薄い絆を発見し再生するために効果的に働くでしょう。

■自分の中から神を追い出さないように

最後に、祈りについてこのように語っていた人がいました。アルコール依存の施設で働いている50代の方です。

アルコール依存の回復のガイドとして、12のステップというものがあり、それは私がそこで働く上での指針になっています。しかし、その中で、価値を置いていなかったものがあります。

それは11ステップ目の「祈りと黙想」という指針です。普段は自分で身体の感じをウォッチしていますが「祈る」ってピンと来ていませんでした。ある日、祈ることで神とコンタクトする、そういう文章が目について、その日一日を神と歩めたらいいな、という感じが明確にありました。

自分が感情的になっているとき、自我が膨れて神を追い出す感じがあるのです。目が覚めている時間を神を歩めたらいいな。自分の中から神を追い出さないように願っています。前みたいに、検事が自分の中にいて自分を裁き続けるのでない、もっと暖かい、もっと気づかいあればいいな。自分にも、他人にも。この感じは新鮮で、慣れてくると前のような状態に戻るかもしれませんが。

歩行者が道を渡ろうとしていると、車を止めて渡ることを手で促すことが、以前よりも自然に増えてきました。全然ムリをしていない感じ。若い部下が能力もないのに無駄な残業をして稼ぎ続けるのに対して、幼い気持ちになって不満が出るときもありますが、言うときは言って、その後は穏やかな気持ちで過ごすことができています。

どうせ自分から出るムードなので、あたたかいもの、やわらかいものが出せたらいいです。こういうフィルターで日常を生きられたらいいなと思います。

■交渉する、依存する、祈る。

天然酵母を育ててパンを作るのは、パンと一緒になって作っている感じがしていいなと思います。YouTubeで見たのですが、引きこもりの児童を預かる会をやっている人がいて、その人が引きこもる子たちには居場所がないと言う。ぬくもりや安心できる場所を探していると言う。「あ、これ昔の私じゃん!この子たち。」そうやって、こっちも気になっている自分がいる。私は、自分の身の振り方で悩んでいるのですが、こないだ職場でこんなことがありました。

自分が人の分の仕事までやってしまって疲弊して、辛くて仕事に行けなくなってきて、思い切って上司に相談しました。そしたら上司は、「できないと言っていいんだよ」と言います。あ、これだ!と思いました。こうやって社会と交渉するんだな。交渉すれば辞めなくて済むと思い直しました。

交渉とは、逃げつつ、守りつつ、社会と交流する方法なのでしょうか。彼がよく「お前はオレの味方か?」と聞きます。「大丈夫だよ」とずっと言ってきたのですが、こないだも同じことを聞かれたので、「それはあなたの心が決めなさい。」と毅然とした態度で応えました。「私は味方だけど、それを信じるかどうかはあなた次第だよ。」そしたら彼はハッとしていました。さっきの引きこもりの子の話じゃないですが、私もまだまだだけど、恩返しがしたいのです。誰かを支えていきたい。

そんな話をする相談者の方がいました。パンを一緒になって作る、この「一緒に」というのは、お互い適度な体重をかけてもたれ合っている状態です。支え合っている。これは共依存ではありません。相互依存といいます。この相互依存の状態は、「交渉」という少し毅然としている行動パターンに似ているのかもしれません。交渉というと社会的なニュアンスも生じてきます。交渉人という映画もありましたね。私はこうだよ、それを信じるかどうかはあなた次第だよ。

とすると、相互依存という関係性も社会的なものになります。安定している良きもの。交渉も相互依存も、これらは祈りということでもあるのではないでしょうか。なぜなら、祈りとは、薄い絆を再生させるものでした。それは安定している良きものでなくてはなりません。祈りというものには、そこには甘えもありますが、それだけではない。社会的な交渉というニュアンスも十分にあるように思いました。宗教的、スピリチュアルだけでは終わらない、そこに祈りというものの懐(ふところ)の深さを感じました。

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