英国王のスピーチ

この記事は約4分で読めます。

■どもりは治さない~英国王にあるもの、ないもの。

2011年度のアカデミー賞の各部門を受賞した映画です。主人公はジョージ6世。映画の公式サイトの説明を引用すると、「英国史上最も内気な国王ジョージ6世。 子供の頃から悩む吃音のために無口で内気な、 現エリザベス女王の父、ジョージ6世。」とあります。

ジョージ6世の吃音克服への努力が描かれ、ナチスのヒトラーによる第2次世界大戦が始まったときに王としてイギリス国民へメッセージを送った、そのスピーチが最後の山場に来ます。

印象から申し上げると、実に爽やかな映画でした。

どもりの治療には平等な関係にある人間がそばで支えることが必要で、その人間によって承認されることが治療につながる、ということが描かれていたと思います。子どもの頃から父や兄によって感情を抑えつけられてきた主人公。それによって真の自分が出せないことが彼をどもりにした。そんな暗喩があったようです。そこへ友達のように現れた治療者。平等な関係を作ることによって、彼の真の自分(抑えつけられた自分)を開放しようとします。ヒワイな言葉も口走らせ、彼の怒りをどんどんと出していった。たまっていた感情を外へ出すことで彼は自由というものを身体で学んでいきます。感情に正直であることとは、どういうことかを学んでいきます。抑えつけるものに対して、真の自分を出そうとします。確かに治療者は、さまざまな治療法を試みています。しかし何か特別な練習が必要なのではなく、自分の感情(映画の場合は怒りや哀しみ)を出すことが、活き活きと自分を生きる道につながるのだということを教えてくれました。

物足りなく感じたのはラストのスピーチ。もっとどもっても良いのにと思いました。あんなにスラスラ読めるはずがない。いや、彼はスラスラ読む必要はない。映画の中では治療者に「今回はWのみどもった」と言われますが、W以外にもどもればよかった。もっとどもる演説の中に彼の人生がにじみ出ればよかったのに、と思いました。どもりの人は練習ではどもらない。しかし本番でどもる。そして本番でどもることが悪いことのように思ってしまう。だから彼には本番でもっとどもって、そのどもる演説がとてもすばらしいものだった、というストーリーであればよかったのにと思いました。

私は今、この映画で描かれなかったことに、一番の関心があります。

この映画では、どもる怒り、どもる哀しみが十分に描かれていました。そこには胸を打たれました。私もかつては、どもる自分に怒り、冷ややかな周囲の視線に怒っていました。そのような怒りはこの映画に丁寧に描かれていました。しかし、この映画では、どもる喜びが描かれていませんでした。

どもる喜びと言うと、違和感を感じる人もいらっしゃるでしょう。でも感情の表現として、どもる怒り→どもる哀しみ、と来たら、次は「どもる喜び」が来るはずです。どもる喜びへの道のりは人それぞれですし、遠い道のりかもしれません。しかし、哀しみの次には喜びが必ずやってくることを知っておくべきです。

最後のスピーチでもっと彼がどもったとしたらどうでしょうか。どもるということは一生懸命話すということです。どもりの人がどもらずに話しているときは、自分の体験を振り返ってみると、何故か真剣味が足りないような気がします。決して不真面目ではないのですが、どもらない自分に酔っぱらってしまうせいか、なんだか適当なことを話しているように感じます。軽い話になってしまう。どもるということは、そこに真剣勝負の雰囲気が漂うのです。なぜだか話す内容も重厚になるのです。

私はカウンセラーなのですが、カウンセリングという仕事にはどもる喜びがあります。つまり、ここぞという時にどもる。意図的でなく、自然とどもってしまう。こういうとき、どもることは非常に有効に働きます。ときどき冗談で、わざとどもるんです、と話しますが、実際は違って、ほんとにどもるんです。意図せずにどもる。それも本当に必要なことを言うとき、そのときどもる。不思議ですね。スピリチュアル的なものが作用しているとしか思えないのですが、大事な話のときに必ずどもるのです。そしてどもることで、私の気持ちが相手へまっすぐに伝わったように思います。この瞬間、私はどもりで良かったと実感します。どもらない人だと伝わらないもの、それが私がどもりであるために相手へ伝わるのです。どもらないカウンセラーが手に入れられないものを頂いている感じです。これがどもる喜びです。

私がもしどもらなくなったら…。そのときはカウンセラーという仕事を止めなければならないと思っていますが、私がどもらなくなることは想像できないので、当分は仕事も安泰でしょうか(笑)。

どもりを克服することはどもらなくなることではありません。どもることが喜びにつながるようになること、これがどもり克服の到達点の一つのように思います。この、どもる喜びが英国王には描かれていませんでした。ということは、英国王はどもる人を表舞台へ引っぱり出した画期的な映画だったのですが、どもりを主人公とした映画はもっともっと素晴らしい映画が生まれる可能性が残っているということです。

タイトルとURLをコピーしました