自分が失われる恐怖

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こないだ帰宅して、テレビをつけてチャンネルを探していました。

惹かれる番組がなくて、つまらないなと思っていたところ、相棒という映画をやっていました。シリーズ何作目なんでしょうね。最期の数分間でした。

細菌兵器を日本の孤島で作っている民間軍事会社の話で、刑務所の面会室のシーンでした。犯人が、「我々はテロリストではない、外から侵略されたときのために兵器を作って日本守っているのだ、日本国民は平和ボケという病気にかかっている」と言うと、主人公の水谷豊が、「あなた方は、国防という流行病(はやりやまい)にかかっているのだ」と言い放ち、犯人と対立したままドラマは終わります。この葛藤は視聴者へ委ねられました。あとはあなたたちで葛藤してください、と。

流行病か、なるほど上手いことをいうなあと思いながら、日本は戦後、ずっと流行病にうなされつつファンタジーを追いかけてきたのかと思い返し、外からの侵略というのはどの程度の恐ろしさなのだろうか、と考えました。

統合失調症という病があります。この病の本質は、普通の感覚をもって生活していた人が突然、自分の自我が崩壊していく現実に直面させられる、その恐怖にあります。

普通、人は外から侵略を受けたとしても、それはツライ時期にはなりますが、それでも自分というものは崩壊しません。大きな抑うつ感に襲われることはあっても、たとえ自殺を選択してしまったとしても、自我というものは解体はしないのです。自我が解体しないゆえに苦しいのです。

統合失調症の人々の切実な訴えは、自我が解体する恐怖です。苦しいというより恐怖です。虐待されて育った人々はその根底に絶対的安心感が希薄だという、基底欠損の恐怖があります。この恐怖は自分というものが成立している上で感じる恐怖です。安心感のない生き方ですので、とても過酷な人生になるのですが、それでも自我は成立しているのです。外からの侵略を受けたツラサというのは、この基底欠損の恐怖の数十倍は軽いもののように思います。なぜなら、たとえ外からの侵略を受けたとしても、虐待という体験がなかった人にとっては、個人が幼少期に獲得した絶対的安心感はゆるがないからです。これは楽です。

統合失調症の自我解体はどれほどの恐怖なのか。なかなか想像することは難しいですが、自我がなくなる、それは恐ろしい体験でしょう。おそらく基底欠損の恐怖よりも、もっと深い恐れであると推測されます。自分が解体する恐怖というものはそのくらいのことです。自分が解体していく、その現実にさらされると、気が狂うのは当たり前のように思います。

自殺の要因で一番多いのが統合失調症です。うつ病ではありません。自我解体への恐怖から逃げるために死を選ぶのです。うつ病は自我がしっかりしているためにかかる病です。ですから統合失調症の方の自殺とは意味が違ってきます。

そんなことを考えていると、精神の不調で来談される方々の訴える恐怖に耳を傾けていると、外から侵略されて支配される苦しみなどはかなり軽症のように思えます。来談者の訴えからしたらかすり傷程度のものでしょう。苦しくはあるが、なんら人生の本質に影響を与えるものではないだろうと、思い至りました。

統合失調症は遺伝因による脳の障害で、発症がプログラムされている病です。ですからそのプログラムのスイッチが入るまでは普通に生活できているのです。普通の家族で、普通に愛着を作り、普通に生活しています。それが自立しなければいけないというストレスに実際に直面させられたときスイッチが入ります。自立というストレスがこころに忍び寄ってきたときに、自立へ向けて頑張ろうとしたときにスイッチが入ります。遺伝子にそのプログラムが記入されていない人にとっては、自立の問題にぶち当たったときは葛藤するだけです。それがどんなに大きな悩みであっても統合失調症を発症することはありません。もともとそういうふうにプログラムがされていないからです。

統合失調症の好発期は20歳前後です。20歳というと思春期を卒業してアイデンティティが確立し、自分というものがしっかりとしてくる時期です。自立が浮上してくるのが20歳前後なのです。ですから、小学生や中学生は統合失調症にはなりません。

同様に40代になってからの発症もありません。自立できていない40代の人はいますが、20代ほどは自立圧力が高まらないというか、そのような人は、性格として自分も周囲も受け入れながら生きているので、半分諦めていることもあり、40代での発症はほぼありません。統合失調症の遺伝因のある人は、生活環境が良いものである場合、20代で発症することもなくそのまま中年へ入っていけるのです。

「環境が良い」とはどのようなことでしょうか。それは刺激の少ない世界ということです。現代はインターネットによって様々な情報にさらされています。これほどまでに刺激が強まった時代はないでしょう。インターネット上を含めたメディア情報には正解もありますが、間違い情報も多数あります。マスコミや専門家が言っているからといって全て正しいと考えるわけにもいきません。出版されている専門書の中にも間違いはたくさんあります。その間違った情報によって妄想が肥大化する危険性はあるでしょう。

統合失調症は軽症化していると言われます。確かに典型的な、一生入院していないといけない人々は少なくなっています。しかし妄想化による事件が増えていることは確かでしょう。どうして妄想が肥大化するか。それは情報化によって脳が洗脳的な状態に陥るからです。インターネットをしていると、思考がせばまっていくように感じたりしませんか。それは集中化、自閉化によってせばまっていくのです。良い環境で自閉化することは創造的な作業につながりますが、劣悪な環境で自閉化すると妄想的になり、事件につながりやすいといえるでしょう。

仏教の世界感を象徴したものに曼荼羅(まんだら)があります。曼荼羅には、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の2種類に分けられます。前者は格子状の絵、後者は放射状の絵です。精神科医の広沢正孝氏によると、胎蔵界は中心、いわゆる核を求める図版であり、アイデンティティの確立願望、自分という核を作り出そうとする願望がそこには表現されているといいます。ユングは曼荼羅の図版として胎蔵界の図版を選びました。なぜなら彼も欧米文化に生きていたからです。欧米は自立を求める文化です。それゆえ必然的に胎蔵界を希求するのです。

統合失調症の人々は胎蔵界に生きようとして失敗した人々です。ならば、もう1つの金剛界を求めてもいいのでしょう。広沢氏によると金剛界とは自閉症の世界です。統合失調症の陰性期と自閉症の様相はとても似ている部分があります。似ているけれど違う。でも統合失調症の人は、金剛界を選択していくことで、自閉の中に生きる道もあるのです。

統合失調症は治ることはありません。しかし社会生活は送れるようになるのです。自閉症の人々がなんとか社会生活を送っているように、統合失調症の人々も同じように生きられるのです。仏教の哲学は、金剛界も胎蔵界も同じように扱います。彼らもその生き方を見習えばいいのです。現代社会を構成している思想は胎蔵界そのものですが、金剛界のように生きる、自閉症のように生きる、そのような生き方もあるということです。

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