夢か現(うつつ)か幻か(愛着障害)

愛着とトラウマ(虐待)
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空虚(うつ)から現実(うつつ)へ

カウンセリング中に、生きているのがむなしい、消えてしまいたいという訴えを、やっとのことで言葉にするクライエントさんが居ます。

そういうことが言えること自体、クライエントさんのリソースが活性化しているわけですが、空虚なもの、虚無的なものから身動きできない、にっちもさっちも行かない無力感がひしひしと伝わります。この訴えは心の深いところから湧き出てくる叫びであるため、こちらも為すすべがない逃げ場のない状態に追い込まれるのと同時に、畏怖のような恐さを感じています。

ここで、クライエントさんもカウンセラーも、逃げずにそこに居るという構図が作られます。治療はここで大きく展開していくチャンスを迎えるのです。

さて、空虚とは内部に何もないことです。空も、虚も、「うつ」と読むことができます。つまり空虚とは「うつ」におおわれた状態であり、抑うつ感の根源とも言えます。鬱(うつ)病は空虚(うつうつ)とした状態に陥った病です。そのため、生きているのがむなしいという感情に彩(いろど)られます。

日本の神話「古事記」によると、イザナギとイザナミの神々の間にできた一番初めの子どもは、手足が萎えた不具の子でした。足も手も使えないため、他人に頼ってしか生きられない子どもでした。手足が使い物にならなかったところから蛭子(ひるこ)と呼ばれました。蛭子とは虫のヒルのような子ども、手足のない子どもという意味です。

蛭子(ひるこ)は、生まれてすぐ、葦(あし)で作った舟に乗せられて海へ流されます。神々である親から、お前は生きている資格はない、と宣言されたわけです。手足のない蛭子(ひるこ)の存在自体危ういものですが、そのうえ笹舟ですから、いつ沈没してもおかしくないわけです。そんな舟に乗せられて、海へ流される。

蛭子(ひるこ)は、しかし、嵐の中を流され流され、生きのびてやっとの思いで島へ漂着します。苦境を生きのびたという体験によって、ここで彼は、蛭子(ひるこ)から蛭子(えびす)に変化(へんげ)します。蛭子(えびす)とは、あの七福神の恵比寿(えびす)のことです。

恵比寿さんは全国に祭られていますが、日本で一番初めに生まれた子どもの出生にはこのような物語があるのです。蛭子(ひるこ)が流れ流れて生きのびることで恵比寿さんに成る物語です。

この蛭子(ひるこ)=恵比寿(えびす)伝説は、生きているのがむなしいと嘆くクライエントさんが訴える、空虚感の来し方行く末(こしかたいくすえ)の別の物語として読み替えることができます。

つまり一見すると頼りなく為すすべのない空虚(うつうつ)としたものは、流れ流れて生きのびることで、恵比寿というものに成就する。

これはユングの言う錬金術と似ているかもしれませんが、違うところは気負いがないということでしょうか。恵比寿というのは魔法使いでもなんでもなく「ただの人」なのです。現実の人です。現実としてそこに居て、飯も食えば糞もする、フツーの人間。この「フツー」というのがくせもので、なかなか人はフツーになるのを恐がるわけです。

他人から承認されたくて今の自分とは違うもの、フツーでないようなものに成ろうとする。それを「夢は実現する」というファンタジーに満ちた言葉で表現するわけですが、しょせん夢とは幻想にすぎない。重要なのは幻想だと分かることです。その現実の眼が在ることです。「夢」とはあなたを現実へ引き戻す素材にすぎないと分かることです。

自分はフツーである、と言える人は強いわけです。村の中心ではなく、外れのほうで泥まみれ糞まみれになりながら、どっこい生きている辺境人(ボーダーラインに生きる人々)、この生命力です。それが恵比寿です。

空虚(うつうつ)としたものが、流れ流れて生きのびて、恵比寿という現実(うつつ)へ変化する。「うつ」から「うつつ」への変化を見届けることが治療ということです。クライエントさんが生きのびること、私たちカウンセラーはその見届け役をやっているのです。

この変化は蛭子伝説そのものです。蛭子から恵比寿へ、「うつ」から「うつつ」へ。この過程を経ることで、ファンタジーから現実世界へ帰ってくることができるのです。LOVE(愛という幻想)からLIVE(生きるということ)へ変化(へんげ)するのです。

西欧では空虚は嫌われる存在です。エンデの終わりのない物語では、最後に、この世界が虚無に呑み込まれてしまいます。しかし、蛭子伝説の示す通り、虚無(うつ)というものは、流れ流れて、現実(うつつ)へ生まれ変わる大きな可能性があるのです。精神的な悩みを抱えて相談に来られるクライエントさんには、そのような大きな可能性があるのです。

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