インナーチャイルドの癒し

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私たち大人のこころの中には二人の子どもがいます。

二人の子どもとは、自由な子どもとコントロールする子ども、この二人です。そして、それら二人の子どもをインナーチャイルドといいます。誰しも、この二人の子どもを持っています。

子どもは自由にのびのびと自分の感情を発散させて遊ぶことが仕事です。そういう子ども時代を生きてこれないと、自由に生き生きしたい自分を押し殺し、自由にしたい子どもをコントロールすることを覚えます。つまり、コントロールする子どもの誕生です。このコントロールする子どもも、ほんとはコントロールなどしたくないのですが、生きていくためには仕方がないので、周囲の大人の顔色をうかがいながら、そのたびに傷つきながら、生きるための方便を身につけていくわけです。

そのコントロール感が生き方をサポートするするように働いているうちはいいのですが、次第に自由な子どもを圧倒するようになってくることがあります。そして「自然な」子どもは、このコントロールする「傷ついた」子どもの影に隠れてだんだんと姿が見えなくなっていきます。傷ついた子どもはさらにコントロールすることを学び、自分をこれ以上傷つけないようにするために必死で自分で自分をコントロールするという悪循環に入っていきます。「自然な」子どもは、こころの片隅においやられ窮屈をしていますが、「傷ついた」子どもも自分を守るために必死なのです。どちらも良い、悪いはないのです。

人は成長する中で、このような二人の子どもを発達させながら大人になります。それが普通です。社会へ適応するには何でも自由に主張するばかりでは、はた迷惑になってしまいます。ですから、心の中に二人の子どもを持っているのが普通の大人なのです。

しかし、このコントロールする「傷ついた」子どものほうが大きくなりすぎると様々な障害が現れてきます。

私たちは、大人になっても、自分のこころの中に「自然な」子どもが居ます。いつまでも健やかなのびのびした自然児のような子どもを持っています。それは私たちの命が尽きるまで持ち続けます。そのようなスリルと、野生の直観力と、生命力を持つ子どもがいるからこそ人生の荒波の中を前進していけるわけです。直観力とは創造力につながるものです。日常のほんのささいな出来事の中にも創造は息づいています。その創造をつかさどるのが「自然な」子どもの直観力なのです。「自然な」子どもの力が弱り直観力が曇ると、日常に創造の張りがなくなり、生きる意欲が落ちてきます。

つまり「自然な」子どもの存在が小さくなって、「傷ついた」子どもの存在のほうが大きくなりすぎると、生きづらさがだんだんと頭をもたげてくるわけです。そして慢性的な喪失感に悩まされます。自分が何を失ったのかはっきりはわからないけれど、漠然としたむなしさ、何かが足りないという感覚が常につきまとい、今の自分ではダメなんだという不安感を抱きながら生きていくことになります。そして、この漠然とした喪失感・空虚感は、一時的なものではなく、ずっと続いていきます。

この漠然とした喪失感を何か別のものや人で埋め合わせしようとしたり、必死で自分は大丈夫なんだと思い込ませることでやりすごそうとしますが、そんなことではこのむなしさはなかなか消えてくれません。それだけ深い喪失感なのです。

そのため当然のように、抑うつ状態を引き起こしたり、なぜかわけがわからない怒りが爆発しそうになったりします。そしてこの喪失感の痛みがもっと深刻になると、自殺願望が出てきたりします。アルコールやセックスへの依存、完璧に行動することへの固執、計画するだけでなかなか実行に移さなかったり、実行していてもそれを終わらせたためしがなかったり、などの行動へ走ったりします。

では、この失ったものの正体は何でしょうか。

それは、素直さ、正直さ、情緒的なつながり、信頼感、柔軟な発想、自己の存在価値などの喪失です。このようなものを子ども時代に失って大人になった人たちを、AC(アダルトチルドレンあるいはアダルトチャイルド)といいます。

ACという概念は、アメリカの社会心理学者クラウディア・ブラックによって作られたものですが、これは精神分析の対象関係論のウィニコットの「偽りの自己」の概念の焼き直しのように思われます。ウィニコットによると、真の自己を隠し偽りの自己を育てながら人は成長していくが、偽りの自己が肥大すると病気になるといいます。(偽りの自己についてはまた改めて別記事でご紹介しましょう。)

では、なぜこのようなものを喪失したのでしょうか。それは子どもの頃の見捨てられ体験から来るとブラックは言います。見捨てら体験とは、ありのままの自分を受け入れて大切にされ無条件に愛されて育てられる、安全で安心感のある生活を送ることができる、そのような体験を得ることができなかったことです。また親子の境界のあいまいさも原因の一つと考えられています。境界のあいまいさとは、親が子どもを友達のように扱ったり、親が子に責任を押し付けたりする関係で、養育態度に一貫性がない、親が親の責任範囲を生きていない、子どもが子どもを生きられないことをいいます。このような親子の境界の希薄さによって、見捨てられ体験は決定的な痛みを生むと言います。

この痛みからの回復は、これらの受け入れがたい過去を受け入れて手放すことです。そうすることで、「傷ついた」子どもの背後に隠れて見えなくなっていた「自然な」子どもを日の光の下へ連れ出すことができるようになります。あとはその「自然な」子どもに任せておけば、あなたは何もする必要はありません。「自然な」子どもは、自分の直感や創造を働かせ、スリルに満ちた楽しい日々を送るようになるからです。そしてそれはあなた自身に活気を与えるみなもとなのです。

受け入れて手放すとひと口でいいますが、それは一筋縄ではいきません。考え方を変えようとしたり、催眠などで過去を再体験したりして過去に直面化することでどうにかなるものでもありません。確かに一時的には楽になるかもしれません。しかし長続きはしないでしょう。傷ついた子どもを抱かえた人の空虚感は底が深いからです。

でも底なし沼ではありません。なんでも底を打つのです。底をうつとそこから浮上してこれるのです。底をうつまで、一緒に長い時間、地底深くもぐってくれる、そんなセラピストが必要とされるのです。小手先だけで物事を変えようとせず、クライエントさんの実存に触れていくようなセラピーが必要なのです。(これはACの方だけではなく、さまざまな疾患をもったすべてのクライエントさんへ対するセラピストの基本的な態度ですね。)

実はACという言葉は、精神疾患の手引きであるDSMにもICDにも出てきません。ACとは、症状や病気というよりも、ある状態を説明したものです。精神疾患にはパーソナリティ障害を含めいろんな症状がありますが、ほぼ、どの疾患にも、この見捨てられ体験から起因するACという状態は存在します。(特に、境界性パーソナリティ障害と深い関係にあるのが、このACという状態です。)
現在なんらかの症状を治療中の方は、その症状の治療のプロセスの中で、ACという状態が解消されることもあります。場合によっては、ACを治療することで、その症状も解消することもあります。

そのような表面的な精神疾患が見られない人でACと思われる人は、インナーチャイルドの催眠セッションも有効かもしれませんが、催眠セッションでは見捨てられた子どもへ直接アクセスする場合が多く、開けなくてもよかったこころの蓋を開けてしまう恐れもあり、そうなった場合、セラピーによる外傷を負うことになり、手放しでお奨めできるものではありません。TPOが肝心なところで、催眠療法家のセラピースタイルが問われるところでもあります。催眠によるインナーチャイルドのセッションも捨てがたいですが、私としては、クライエントさんの状態を注意深く観察しながら、安全にゆっくりとこころの底の揺れを観ていくセラピーのほうが、クライエント、セラピスト双方にとって安心できると思っています。

見捨てられ体験から起因するACという状態は、生きづらさの根っこです。そのため、このACの状態が解消すれば、いろんな面で事態が好転する可能性は大きいと言えるでしょう。

参考図書:
子どもを生きればおとなになれる(クラウディア・ブラック)
インナーチャイルド(ジョン・ブラッドショー)
毒になる親(スーザン・フォワード)

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