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ソレア心理カウンセリングセンター

2018.07.13 |虐待・DV・AC・解離・依存

憲法改正と虐待問題(愛着障害)

(以下の記事は2013年の春に書きました。各政党の意見はその頃から比べると変化していることもあります。より過激になっている政党もあるようで、2013年はまだ良かった時代だったのかもしれません。)



自由民主党の憲法改正草案を読みました。その中の、第二十四条に新しく加わった条項について考えてみます。

自民党憲法改正草案----------------------
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
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さらっと読むと、さらっと通過しそうですが、この草案の元になった世界人権宣言16条3項と比較すると、どこが問題なのかが浮かび上がります。

世界人権宣言----------------------------
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であり、社会及び国による保護を受ける権利を有する。
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世界人権宣言では、家族は社会および国による保護を受ける権利がある、としていることろを、自民党の改正案では、家族は互いに助け合わなければいけない、となっています。家族の助け合いは普遍なことです。だからあえて言う必要はない。では、どうして自民党は言う必要のない、この普遍的なことを言い放ってしまったのか。それは普通の家族ではない家族を想定してのことでしょう。普通の家族ではない家族とは何か。それは親による子への虐待が日常となっている家族です。虐待家族の存在をそうやって分かっていることは、自民党もズレていないでしょう。最近の状況をよく分かっている。

しかし問題は、この虐待家族に対して、「家族は、互いに助け合わなければならない。」と苦言を呈している部分です。ここの部分は、余計なおせっかいなのです。なぜ余計なことかと言うと、この余計なお世話をされることで、虐待家族では、子どもへの虐待が継続してしまうからです。そのことが議員たちには見えていないのです。「虐待したけれど反省しているようだから家族として再生していこうね」なんてあまちゃん目線を投げてしまっているところが問題なのです。どうして甘いのか。世襲2世そろいの弱点なのか、国会議員というものはそういうものなのか、よく分かりません。謎です。

少し見張るだけで、再生しない家族、再生できない家族はたくさんあるのだと分かります。助け合うなんてあまっちょろいことが言えない家族が、たくさんあるのです。再生できない家族で、子どもがひとりでガマンして、なんとか家族を再生させようとして親のために頑張って耐えている、親は子が頑張って虐待に耐えているので、自分のやっていることは正しいことと勘違いして、親からの虐待が継続していく。ここが見えていない人が多い。親が変われると幻想を抱いている人が多い。幻想を抱いているほうが、口当たりがいいし、お涙ちょうだいストーリーになるので、勢い、そっちへ行ってしまいがちになる。でも、虐待家族の現実は、変われない親が多いのです。だから、親子で助け合おうなんて言えない。

どうして変われないのか。それは虐待する親に知能の発達の問題があるからです。虐待しそうなんです、殴ってしまった、どうしようと、罪悪感を感じながら相談にくる親は、実は、虐待はしていないのです。ちゃんと子どもと愛着ができているから、罪悪感を感じ、自分の気持ちに不安を感じるのです。そういう親は虐待はしないし、変われる。でも本当に虐待している親は、罪悪感すらありませんから、変われる余地がないのです。どうして大人なのに子どもを殴って罪悪感がないのか。あるいは、いじめを楽しんでいる親さえいます。そこには発達の問題があるのです。

自民党がこの項目を入れたQ&A集を読むと、

家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています。こうしたことに鑑みて、24条1項に家族の規定を新設し、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。」と規定しました。

と書かれていました。

家族の絆が薄いからという理由で改正するということですが、本当に家族の絆が薄くなったのか、それはどのように測定したのか、まったくわかりません。増加する虐待事件や少年事件の背景に家族の問題をみているのでしょう。確かに家族の問題を見る視点は間違いではありません。その問題の原因を「絆の薄さ」に求めるところが問題なのです。もう少し考えてみてほしかったです。どうして絆が薄いのか。そこには親の発達の問題も大きく存在しているのです。そこが見えていないのです。子どもがいくら求めても、親からの適切な応答がなければ愛着は育ちません。絆なんてものは生まれようがありません。これは子の問題というより親の問題なのです。適切に応答ができないという、親側の発達の問題がそこにはあるのです。

絆は大切ですが、それは家族でしか作れないと思うのは幻想です。どう頑張っても家族の間で絆を作れない家族だってあるのです。そういう場合は、家族以外のところで絆を作ればいいだけなのです。そこを「家族」と限定してしまうと、話が変な方向へ行ってしまうのです。虐待家族が維持されてしまうのです。


ビートルズのジョンレノンが書いた歌を見てみましょう。


Mother

お母さん 僕はあなたのものだったけど
あなたは僕のものではなかった
僕はあなたを求めたけれど
あなたは僕を求めなかった
お母さん さようなら

お父さん あなたは僕をすてたけれど
僕はあなたをすてられなかった
僕はあなたが必要だったけれど
あなたは僕を必要としなかった
お父さん さようなら

こどもたちよ
僕の失敗を繰り返さないで
僕は歩けないのに
走ろうとしたんだ
君たちに言うよ さようなら

お母さんいかないで
お父さん帰ってきて


ジョンは幼少期に、父に捨てられ、母に捨てられます。ジョンへの虐待は、心理的虐待とネグレクトでした。それでも、父や母に帰ってきて、と叫び続けるジョン。このジョンの訴えこそ虐待された子どもの訴えなのです。虐待されているのに親を求める。親がいないと生きていきないからです。虐待と服従。この極限の選択の中で生きているのが被虐待児なのです。

だから大人たちが、分かったように「家族の絆を作ろう」なんて声をかけることに対しては、自分の頑張りが分かってもらえていないと怒りを向けるのです。それは当たりまえの感情ですね。彼らの生死をかけた毎日の戦いを思えば、「家族は互いに助け合わなければならない」という言葉が、いかに絵空事(えそらごと)に響いてくるかお分かりになると思います。家族で助け合うなんて言わなくていいのです。われわれは人間として、お互いに助け合えばいいのです。大人になれば、(うまくいけば)親と子という関係から、人間と人間の関係になるのです。家族で助け合うわけではないのです。

ここで、このジョンの歌詞の心理学的な視点から解説をしておきます。

母と父への訴えについては分かりやすいでしょう。母や父のことをどんなに思っていても、それが通じないことへの落胆が表現されています。それゆえ、愛着を感じながら、そこから離れようとします。

では、子どもへの訴えについてはどうでしょうか。ここには子育てへの怖れ、世代間連鎖の怖れが表現されています。僕は虐待を受けて育った。だから、人間との距離の取り方が少しおかしい。普通と違う。どう違うかというと、人間がとても怖いのだ。このような僕だから、僕もこの子たちを虐待してしまうのではないか。そしてこの子たちも同様に、自分の子どもを虐待してしまうのではないか。虐待の連鎖が繰り返されるのではないか。

僕は歩けもしないのに走ろうとした。できないことをやろうとした。つまり愛着を返してくれない人にその愛着を求めた。

もう1つの意味として、歩けないというのは乳児のことです。走るとは自我が確立した大人のことです。つまり乳児のこころのままの自分が、大人のこころのフリをして生きようとしたということを言っています。少し想像していただければ分かりますが、乳児の子どもが大人の世界で生きていくことの生きづらさというのは相当のものがあります。いろんなところで恐怖にぶつかりながら、怖いよ、怖いよといいながら、生きているのです。これが被虐待児の生き方そのものなのです。

愛着も得られず、怖いと思いながら世間を生きていく、そういう自分はおかしい、どこか世間とズレているところがある。ときどきそんな自分が怖くなるときがある。そんな僕と一緒にいるのはよくないので、僕の子どもである君たちにさようならというよ。

この、こどもたちへの「さようなら」は、母や父へ言った「さようなら」ではなくて、子育てがうまくできない自分から子どもたちへの謝罪なのです。「ごめんなさい」という感じ。子どもたちと距離を取ってしまう自分、親密になれない自分を謝っているのです。母や父へのさようならとは意味が違うのです。子どもたちのことは愛しているけれど、虐待されて育ったという成育歴ゆえに他者との距離をとってしまわざるを得ない自分へのうらめしさを思いながら、謝罪しているのです。

実際、僕と子どもたちにはちゃんと愛着があるので、子どもたちの気持ちは僕に通じているので、虐待が繰り返されることはありません。虐待の世代間連鎖が繰り返されることはありません。それは分かっていても、心配してしまうのが、被虐待児なのです。こころの底から安心することができないのです。

だから愛する子どもとも距離感を取ってしまう。その自分の心性への恨めしさが、大きな罪悪感となって日々のしかかってくるのです。感じなくてよい罪悪感とともに生きているのが、被虐待児なのです。この感覚は完全に拭い去ることはできないでしょう。虐待から回復してきても、こころのどこか片隅にその痛み、哀しみは、ずっと残ることになります。それが彼らの生きていく証ともなるのです。

今、取沙汰されている96条の改正については、国会議員たるもの、自分で自分を縛るルールを弱くしてどうするのだ、ということです。ルールはもっと厳しくてもいいわけで、アメリカなどはもっと厳しい。憲法を変えるような大変なことをやるには、他者を説得するそれなりの大きな努力が必要で、過半数の賛成でOKだなんて甘いのです。法律のプロのはずの橋本氏も同じ意見だから、クラクラしてしまいます。表舞台に出てくる日本のプロたちは、あまちゃんだらけです。
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