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ソレア心理カウンセリングセンター

2018.07.12 |こころの発達

タマシイの発達を体験する特別な人々

心理発達は大きくみて、乳幼児、学童期、思春期、成人期と発達していきます。これとは別にタマシイの発達を遂げる人々もいます。だいたいの人は心理発達が自分の身体としたら、それに影のように寄り添いながら魂も発達するので、影ということもあって自覚していません。

しかしこの影の部分が本体(身体)とは別のサイクルで発達する人々がいるのです。

この記事はYouTubeにもアップロードしていますので音声で聴くことができます。どうぞご利用ください。

YouTube前編(リアルな子どもたちまで) 
YouTube後編

□IC~イメージ側面とタマシイ側面から

ICとは、Inner Child(インナーチャイルド)ともImaginary Companion(空想上の子ども)とも言われます。どちらにしろ自分のこころの中に住んでいる子どもたちです。しかし、ICと言われた瞬間、これらはイメージの話になります。実際にそこにそういう子どもが住んでいるわけではありません。自分が作り出した感覚です。何か胸の奥に在るなあというイメージにすぎません。催眠療法などでICに会いに行くセッションなどがありますが、あれは自分が会ったような気になったりしているだけです。頭の中で、ICというイメージを膨らませているだけです。(「だけ」と言いましたが、それが効果がないというわけではありません。長くは続かないかもしれませんが、イメージ療法としての効果的な意味はあります。)

さて、このICというイメージですが、それらが自律することもあります。自律とは勝手に動きだすということです。イメージが自律すると、ICはその人にとって怖い存在になります。自分の制御を超えて勝手に何かをしだすわけですから。自律するそれらの多くは、脳疾患によるものです。統合失調症の幻聴や独話などはこれらの自律に入るでしょう。ただ、この自律も病態が収まっていけば自律的な機能も収まっていきます。マイルドなものになっていきます。時間はかかりますが、最初はスピリチュアル的な色合いも感じられたとしても、治療が進んでいくとダルい感じのものになっていきます。怖いものが退屈な存在になっていきます。それはスピリチュアル的ではなくて、つまらないものかもしれませんが、治癒というものはそのようなものです。特に脳疾患が絡む治癒は、神がかり的な覚醒のようなものは伴いません。もし神がかっているとすると、それはまだ治っていないことが多い。神がかり的でなくなることについては、ちょっと諦めてもらうしかないでしょう。生きるとはそういうものだと。

統合失調症による自律はイメージの暴走と捉えることができますが、脳疾患に依らない幻聴や自律したICを見る人もいます。そういう人々は、だいたい解離する経験がある人々です。解離は脳疾患がベースの病態ではなく、心理的な幻聴であり、底知れぬ恐怖がベースにあります。底知れぬ恐怖とは、基本的信頼感を経験していない恐怖であり、基底欠損とも呼ばれます。人生のスタートラインでスタートを切ることができずに立ちつくしている人々です。そのような人々を人間アレルギーと呼んでいる医者もいるようですが、それは、アレルギーと言えるような生易しいものでありません。アレルギーというとどことなく余裕を感じます。解離する人はそんな余裕すらない。アレルギーという言葉を使いたいのなら、アナフィラキシーショック程度の意味でなら妥当かもしれません。そのくらいの恐怖、死に直結している恐怖ということです。

解離的な人がみるICは、イメージや脳疾患によるものとはちょっと違います。神がかり的なこと、タマシイレベルのことが往々にしてあるようです。そのことについてこれから見ていきましょう。

□被害的な恐怖の中に出現するリアルなIC

普通の人が感じる恐怖は不安が高じたものですが、底知れぬ恐怖を抱く解離ベースの人々は、虚無感あるいは絶望感に彩られた恐怖を抱いています。そこには時々、妄想的な色味もありますが、それは根拠のない妄想ではなく、追い詰められた先に抱く被害的な恐怖です。かつて体験した「コレはアレと同じだ」という恐怖です。

そのような恐怖を抱くようになると、カウンセリングの現場では、そのクライエントは長く話すようになります。怖さゆえに止めることができないのです。しかし長く話す場合は、恐怖によるものだけではありません。クライエントとカウンセラーの関係性が出来てきた場合でも長く話すようになります。そのどちらであるのかは、カウンセラーはちゃんと理解しながら話を聴いている必要があります。

ではどのように聴くと良いのか。話が長くなる場合は、上のどちらにしても、話が止まるまで聴き続けることです。助言を差し挟まないことがポイントです。クライエントが言い尽くしたと思えれば、話は止まります。この言い尽くしたという感覚は、カウンセラーによって受容された感覚と言ってもいいでしょう。受容されると話は止まります。なぜ受容が大切か。受容が必要なことはだいたい誰しも「感」で分かっていることですが、はっきりと答えられるでしょうか。それは、カウンセラーがクライエントの恐怖や孤立感をしっかり聴くことで、クライエントの自己理解が進むからです。このことは傾聴がいかにカウンセリングにとっては大切かを言い表しています。

さて、イメージの暴走ではなく、脳疾患でもないICというものはどういうものなのか。それは基底欠損を持った人々が回復途中で体験するリアルなものになります。それはイメージの世界ではないのです。実際に体験するのです。リアルなものとは、少し分かりづらいかもしれませんね。

□賢くて自由な子の成長過程

次は、基底欠損をもつ方(Nさん)の語りです。

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こないだ分かったのですが、私の中に賢くて自由な子どもがいるんです。私がウジウジしているとその子が、こうしなさい、と言ってくるんです。とってもやる気が失せていると、それは疲れるね、とも同意してくれる。私は、その子の存在を感じると、とてもホッとします。
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精神科医の高橋和巳氏の本(消えたい)によると、基底欠損や基本的信頼感を得ることができなかった人々(つまり被虐児=愛着障害のある人々)は、回復が進むと乳幼児の自分から成人期へ一気にジャンプすると言います。学童期、思春期を経過せずに成人期へジャンプすると言います。

上で紹介した方の経験から考察すると、こころの発達は外からみると乳幼児→成人期へジャンプしたように見えますが、こころの中に出現したリアルな子どもが、乳児期→学童期→思春期→成人期と、普通の心理発達を遂げているように見えます。代理というか、肩代わりというか、そういう体験を実際にしています。ハコミセラピー的に言うと、Take-over(テイクオーバー=肩代わり) ということになるでしょうか。その人のこころは学童期と思春期は体験していないが、こころのどこかの部分で学童期と思春期を体験する。分かりづらい言い方ですが、そのような感じでスキップせずに成長をトレースしていく部分があるようです。「こころのどこかの部分」とはどこか。

これは実際の人間の発達とはちょっと違った話になるのかもしれません。もう少し別の次元の話になるのかもしれません。この記事の最後のほうでタマシイについて触れますが、タマシイの発達とも言える話になるのかもしれません。そうなると、心理的な話とかぶりながら、パラレルワールド的にタマシイの世界が見え隠れする話なのかもしれません。別の次元で発達を遂げる。しかしそれはスピリチュアル的な話ではなく、あくまでも現世と結びついているリアルなタマシイの話なのです。

□リアルな子どもたち

Nさんのこころの中の賢くて自由な子どもも普通の子どもなので、普通に思春期を経過します。すると何かNさんに行動化が起きるように思えますが、こころの中の子どもが体験しているだけで、本人はその子どもとの対話があるだけなので、その賢くて自由な子の思春期行動が本人の外側に漏れだすわけでありません。賢くて自由なところもありますから、一般的な思春期のような典型的な怒りの放出が起こるわけではありません。このことによって、外側から見ると、乳児期から成人期に一気にジャンプしているように見えるのでしょう。こころの中を見れば、ちょっと普通の人々とは違った感じで思春期を体験しているのでしょう。何度も申し上げますが、タマシイ(こころのどこかの部分)が思春期を通過しているのです。

これらの自由な子どもは、イメージではないということも重要です。リアルにその発達を体験しているということが重要です。心理発達は、何か映画を見ているようなイメージでは作られていかないからです。いくら本を読んでも、残念ながら真の体験にはつながらない。知識としては蓄積しますが、それは鎧でしかない。安心感のない人が生きていくには鎧は必要ですが、鎧は非常に重い。それが慢性の疲労や抑うつ感として現れます。ですから、鎧をつけながら、それを軽くしていきたい。それがカウンセリングです。鎧は着けてていいのです。軽くなっていれば楽に呼吸できるようになります。

実際に発達を体験していないならば実際の再体験が必要です。実際の場が必要です。リアルでないと発達はしない。治療の場に視点を移してみると、リアルだから回復するのでしょう。賢くて自由な子はリアルな世界なのです。決して何かのスピリチュアルな話でもありません。タマシイの話です。全ては現実世界のリアルなこととして進んでいくのです。

ではイメージを扱った治療は空振りと終わるのでしょうか。そういうことではないと思います。イメージを適切な時期に扱えば、クライエントの安心感が増大します。それによってリアルな子どもたちが、安心できるイメージを安全基地として成長していくことができます。そのようにイメージは使っていけばいいのです。安心イメージだけでは治りません。元々脆弱な世界にリアルな自分が出現するために、何度もイメージで補強していけばいいのです。補強はイメージ療法だけではないでしょう。一番は、カウンセラーとの対話によって獲得していくであろう安全感です。カウンセリングを続ける意味が、そこにあるのです。

□ぽっぽやの娘たちと交差点で出会った自分

浅田次郎の鉄道員(ぽっぽや)は、夢幻の世界の話です。この小説には、3人の女の子が出てきます。初めは幼児、次が小学生、最後に高校生。この3人は亡くなった自分の娘の化身で、主人公の目の前に本物のように現れます。そして主人公は、幼児から高校生までの3人と出会うことで、成長していく自分の娘の実際の姿を垣間見ることができました。彼が見ることのできなかった娘の成長を、実際に目にしたのです。これはおとぎ話のようで、実はそうではないのです。彼は実際に見たのです。この現実感が読んでいるものにも伝わるからこそ直木賞も取ったのでしょう。

Nさんの中に出現した賢くて自由な子は、この小説の女の子のように成長していきます。まさに学童期→思春期を経過するのです。鉄道員は架空の話ですが、それが架空でない人々もいるのです。鉄道員の主人公は、夢を見るように数日のうちにこの3人の娘と交流を持ちますが、Nさんの賢くて自由な子どもたちとの体験も、何年もあるわけではありません。それは回復の進度に応じて変わってきます。

普通でみると、学童期開始が4歳くらいで、思春期終了が20代前半とすると、20年弱の期間ですが、それらの期間を数か月あるいは1年ちょっとの対話を通して通過していき、現在の自分に合流していくのです。その子どもの成長は、自分の成長でありながら、同時にそれを見ている視点も入っているため、倫理規範の書き換えを伴う普通の思春期(親への反抗)のようには、激しくは進行しないのでしょう。

思春期がなぜ激しくなるのかは、この親から受け継いだ倫理規範を自分のものに書き換えないといけないからです。親への反抗を通して、倫理規範を自分のスタイルに合うように書き換える。これが自我同一性(アイデンティティ)の確立になります。つまり親からの完全なる自律です。

精神科医の斉藤学氏も、リアルな自分と出会ったという事例を紹介しています。

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交差点で信号待ちをしていたら、向こう側で待っている人々の中にどうも自分に似た人がいるというのです。信号が変わって歩き出し、すれ違ったときによく見ると、やはり自分なのです。年恰好からしたら少し年上の自分でした。思わず後ろを振り返っても、やはり後ろ姿も自分でした。その後から、彼女は回復に転じました。
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自分にリアルに出会うということは、回復のためには大きな役割を担っているということでしょう。

□タマシイは成長する

精神科医の柴山雅俊氏は、折口信夫を参照しながらタマシイについて解説しています(解離の構造)。このタマシイこそ、Nさんのリアルな自分なのでしょう。

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霊魂は各人に一つではなく、複数入っている。外から自由に体に入ったり、体の中で複数に分かれたり増えたりして、また外へ出ていく。肉体は魂の仮りの宿であり、魂は浮かれやすく、離脱しやすい。
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最後の一文「魂は離脱しやすい」とは、タマシイというものの特性の一つとして解離があるということを示しています。ソウルメイト(魂の友人)という考え方がスピリチュアルの世界でありますが、ソウルメイトも複数いて、それは分かれたり、離れたりして、変化するものである、と考えるのが、日本的土着思考なのです。欧米の一神教とは違った視点が日本にはあります。そしてその視点は精神医療にとって重要な視点となるのです。

外へと離れやすいタマシイを体内に鎮めようとする行動を鎮魂(たましずめ=ちんこん)と言います。鎮魂とは、供養、慰霊のような死者の魂が平安のうちにあることを祈ることではありません。鎮魂とは、内在化した魂が肉体から離れてしまわないように(解離しないように)体内に密着せしめようとする働きです。

クライエントの鎮魂を促進させるものとして、カウンセラーが存在しているのでしょう。

「この魂は生物の根本だが、これが理想的な形に入れられると、その物質も生命を持ち、物質も大きくなり、霊魂も大きく発達する」と言います。理想的な形というのは難しい表現ですが、これを治療的に眺めると、「心的な側面で回復期に入ったクライエント」と置き換えてもいいでしょう。そのようなクライエントのタマシイは発達していくのです!これはまさに、Nさんに出現した「リアルな賢い自由な子ども」の発達のことを言っているのです。将来彼らは「大きく発達する」ことが約束されているのです。

□ストーリーの転換とタマシイの成長

このように書きましたが、私の文章は舌足らずですし、タマシイの発達についてはなかなか理解しづらい面もありますが、話を続けましょう。ではタマシイの発達を促すにはどうしたらいいのでしょうか。それはクライエントの話を積極的に傾聴して共感していくことに尽きます。クライエントの感情や感覚をカウンセラーが口に出してあげていくことです。そうすると分かってもらえたと安心します。この繰り返しで基本的安心感を再構築していくのです。口に出すにはカウンセラーがクライエントのことを十分に理解していないといけません。それだけ理解するには、二人の間に安全関係が成り立っていないといけません。こうやって成立している安全、これがタマシイの発達を促すのです。

斉藤氏はもう少し具体的に、ある事例について、このように言っています。

「患者の語っていることはナラティブなのですが、単なる語りにしないで「それから?それから?」と言って紡いであげると、それはだんだんストーリーになり、聴き手の反応によって冒険譚に変わるわけです。(それによって)それにしてもよく生き残ったなと彼女は思い、自分の軌跡が、栄光の12年と暗黒の10年ではなく、暗黒の12年と冒険の10年だったことを実感します。(中略)これがストーリーの転換です。肯定的リフレイミング(再枠づけ)です。」(「家族神話」があなたをしばる)

この患者は22歳の女性です。生まれてから中学へ入るまでの12年間は絵もスポーツも勉強もトップで神童と呼ばれていました。すんなりと有名な女子進学校へ入ります。中学以降の10年は、過食嘔吐、万引き、ナイトクラブ勤め、複数の外国人とのセックス、そんな日々でした。それが栄光の12年と暗黒の10年から、暗黒の12年と冒険の10年に物語が書き換わる。過去は変わりませんが、過去の時間の捉え方が変わる。冒険譚へと上書きされるのです。まさにルフィ―のような話ですね(笑)。

冒険譚に上書きという概念は、斉藤氏の独壇場です。彼の治療はこの言葉に集約されると思います。逆説的な治療も家族療法もACの治療も、すべてこの上書きによって成されていきます。斉藤氏と比べられるものではありませんが、自分の治療を振り返るとどうなのか。私の場合は、自分の色味が同系色の中で変化していくような感じでしょうか。自分という色味は変えられないし、変える必要はない。しかし、同系色の中でグラデーション的な変化はあるでしょう。その変化を見ていくのが私という治療者なのでしょう。だから、私の治療は、全然画期的な感じもしないし、惹かれるものも少ないと思います。地味にやっていくこと。それだけです。

□タマシイの発達を促すカウンセラーの関わり方

斉藤氏の言葉「単なるナラティブではなく、それから?それから?と語りを紡いであげる」とは、基本的なカウンセラーの態度のことを言っているのですが、このように聴けるためには、患者の家族の構造がはっきりと見えている必要があります。カウンセラーがはっきりと見えているとき、患者の家族への理解が進むのです。カウンセリングが進んでいくかどうかは、この意味で、カウンセラーの患者家族を見通せる理解力にかかっています。本人はもとより家族全体を、ちゃんと見立てられているかです。カウンセラーが家族の布置をミスリーディングしていてはカウンセリングは進んでいきません。

家族の構造とは、単にジェノグラムを描けばいいというものではなく、ジェノグラムに家族の心理的な配置が見えてこないと家族の構造は見えてきません。ユングはこの配置をコンステレーション(布置)と呼びました。

子どもは親がもっている以上の(霊的な)発達を遂げることはできないことは精神医療ではよく知られた事実です。その意味では人生は親に縛られているのです。しかし、子どもは自分が生きづらいことに気がついて治療の扉を叩きます。そして自分の物語を再確認することを通して物語が転換します。そこまで来てはじめて(霊的な)発達の道につくことができるのです。親を乗り越える瞬間です。カウンセリングはそのために存在するのです。

これから賢く自由な子に成長しそうな子どもの話を最後に紹介しておきます。

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自分の中に暴れる子がいて、大丈夫、大丈夫と言い聞かせています。ただ、最近、他のお母さんみたいに、子どもたちを保育園へ自転車で迎えにいきたいと思います。
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かつてNさんにも自分の中には大勢の暴れる子どもたちがいました。絵にしてもらったら7、8人いたでしょうか。それは人間の形をしたものから、そうでないものまで。それがタマシイが成長していくにしたがって、賢く自由な子どもに変貌を遂げました。

大丈夫と言い聞かせるTさんですが、以前ですと、この暴れる子どものこともあって、実際の子どもたちへは恐怖を感じながらの関わりしかできていませんでした。それが、なんとか暴れる子を落ち着かせて、自転車で保育園へ実際の子どもたちを迎えにいきたいと言えるようになりました。これは暴れる子が暴れるだけではなくなってきているということです。もう少したつと、ちょっと違う見え方をしてくるのかもしれません。

それまでは、治療者としての私がやれることは、せっせと安全な関係性を作っていくだけですね。そしてそれは、あくまでも回復へ至る通過点にすぎません。

今回はタマシイの発達ということで、幻覚でもなんでもなく、実際に別の自分に会う人々の話をしました。しかし、タマシイの発達を必要としている人々すべてが、このように出会いを体験するわけではありません。また、こうやって出会わないと回復しない、というわけではありません。では、このタマシイとの出会いとはいったい何なんでしょうか。

それは私には分かりません。解離しやすかった人は、タマシイの自分に出会う可能性が高いように思いますが、それは印象であって何の信ぴょう性もありません。治り方は千差万別あって、その一つがこのようなことである。そのように思っておいていただいて結構かと思います。どんな道を通ったとしても治癒していくことには代わりないわけですから。どんな道を通ってもいいのです。時間がかかろうが大切なのは、その人にはその人の道があり、その道を通ることが治癒していくことになる、ということです。

別のサイクルでタマシイが発達するというのは、おそらく確かなことだと思います。ただ、それが別の自分とのリアルな出会いということで、タマシイの発達を確認できるという体験は、する人もいればしない人もいる。人それぞれだということです。

□あるセッションから

別の人とのセッションの一部をご紹介しておきます。この人はリアルな出会いというまでにはいかないかもしれませんが、それでもこの人も、自由な感じが出てきます。こうやって解放されていく感じを味わうことが、タマシイが発達しているということのように思います。(  )は私の応答です。例によって(笑)、ほんのちょっとしか発語していません。

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本来の私は、自由が好きで好奇心がいっぱいあったようです。これは、これまで生きてきた感じと大きく違います。これまでは人の世話を焼いたり、周りに気を付ける役割を違和感なくやってきたけれど、それは辛かった。何の根拠もありませんが、いま自分の中には、思いがけなく自由な人が居て、これが自分の素だったのかと思います。

私は、いま自由で、あちこち行きたくて、人のことを考えず、気の向いたことをして、飽きたら止めて、興味がわいたらやって。そうやって生きています。ワガママになったのか。威張っているのか。

(それは回復してきているんです。)

私は、今までやってきたような表面を取り繕う人であることは変わっていません。でも、私の中には、自由が好きな今の私とかけ離れた別の人が居るのです。私が何かを乗り越えたのではなく、かと言って、それはイメージでも願望でもなく、実際にそこに在るんです。まだ表には出てきていませんが、確かにそこに居るのです。

こういう自由なもう一人の自分を感じることは、生まれて初めてです。これまで人の同意がないと、人が喜んでくれないとそれでいいと思えず、買い物をするときも不安でした。でも、自分が食べたいものを、それが高価であっても買う。これまではスーパーに行っても、100円しない豆腐を買っていましたが、ちょっと値の張る200円の豆腐を自分のために買ってみる。それは美味しいです。美味しいと感じているとき、後ろめたさや罪悪感もありません。そうやって、自分で自分を安く扱っていないのは良いですね。

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こうやってタマシイは後追いでも、発達していくのです。そしてタマシイもいずれ大人になる。これまでは外見が大人の、でもこころは子どもでしたが、タマシイもそこへ合流してくる。そのとき人は、自分が一致した感覚をもつのでしょう。アイデンティティがそこで成立する。二つの長い旅がそこで終わり、一つの旅がそこから始まるのでしょう。
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