霊的なものについて

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私がどのように霊的なものをとらえているかの告白です。

□心霊現象(幻覚)について

霊的な話をする前にまず、私が心霊現象をどう考えているのかを明確にしておきます。

私は職業柄、カウンセリングの中で心霊体験を話される方にたくさん出会ってきました。ほんとうに皆さん、大勢の方が心霊体験をされています。(私も少ないながらあります。)心霊体験は病的なものもありますが、いたって健康な方も霊に出会うわけです。

心霊現象は精神医学的には幻覚(幻視・幻聴)ですが、「不安な気持ちの追体験」と言葉を変えて定義することもできます。

不安のある人が、自分で解離状態を作りだして、自分の外側にそれを見るのです。何かに対して大きな不安を持ったとき、そして自分の中にその不安を保持しておくことが困難になったとき、解離のスキルがある人は解離を使って、その不安を自分の外に追い出します。実際は不安の種はまだ自分の中に残っているのですが、追い出した気分になるのです。不安は幻として自分の外側に追い出されたわけなので、それをその人は何かの実際の姿として見ます。それが、もう一人の自分だったり、誰か知らない人影だったりします。その人のそばに感受性の強い人が一緒にいた場合、その人も同じような影を見ることもあります。影は見る人の感受性によっては、とてもリアルな映像として見えたりもします。

こうして解離によって不安な気持ちが心霊現象に置き換えられ、恐ろしいストーリーとして追体験するわけです。こういうケースはたくさんあります。テレビなどでやっている心霊現象の話は、ほとんどがこのケースでしょう。(かなり不安をあおった演出をしています。)

しかし、すべてが解離によって説明できるわけではありません。どことなく、実際の霊も関与しているのではないかと思われるものもあります。でも、その場合はほとんど問題がありません。私の少ない体験では、その霊は当事者の日常に何らかの悪影響を与えることはほとんどありません。ほっておいてもいいのです。むしろ、心霊現象を有意義な霊的体験に昇華させるために、ほっておいたほうがいいのです。

ほっておくと、不安というものは自然と減少していきます。行動心理学的には、不安感への暴露(ばくろ)による不安感の減少と言います。不安が減ると心霊現象も消えていきますが、それでも何か「小さきもの」が残ったりすることもあります。この小さきものには何かしら創造的な(霊的な)芽があるように感じられます。

小さきものとは、ユーモアがあり新しい風を送るものです。目の前に起きている現象が邪悪な悪魔の仕業かと思ってよく見てみると、人なつっこい笑顔でこっちを見ている小さな小さな座敷わらしだった、そのような感じです。そこには心霊というよりも、暖かな霊性が宿っているのです。

心霊現象が不安から来るものか、それとも本当の霊の存在から来るものか、その切り分けはどこでやっているのだ、という疑問も当然沸いてきます。私が頼りとしているのは、その心霊的な話の中に予知的なものが含まれていてそれがその通りになった場合、ひょっとすると霊的な関与があるのかもしれない、と思うくらいのものです。しかし、予知にしても、既視感(デジャブ)が予知として感じられる場合があるので注意が必要です。

既視感とは、現在起きている出来事について、以前にも同じようなことがあったように思うことです。初めて来た場所なのに以前も来たように思うことです。これは軽い解離症状です。催眠療法のカウンセラーは、それを前世での体験がよみがえっていると読み換えたりしますが、それはカウンセラー側の勝手な解釈であって、クライエントさんの役に立つかどうかは疑問です。催眠療法から離れて一般的な心理学では、今起きている出来事は前世でも起きていたと解釈するようなことを、「外在化」といいます。このとらえ方のほうが広く応用が効きます。前世という、現在と時空が異なる世界(つまり外の世界)で起きたこととして眺めることで、客観的に見ることができるようになるからです。

外在化はトラウマ治療にも有効な手法ですが、催眠のように今の時間に起こっていることを前世とつなげることは、そのときの一時的な満足(カタルシスといいます)にはなるかもしれませんが、それ以上のものではなく、時が経てばもとに戻ってしまいます。ですから、私は、前世療法はメインで使うものではなく、必要なときに1回だけ使うものであると思っています。そしてそれは、外在化のために使われるべきであると思うのです。

さて、予知的なものが関与しているものは本物の霊の存在から来るものかもしれない、と言いましたが、ではそれ以外に霊の存在を示すものはあるのかというと、「ある」と答えておくのが正直なところでしょう。では、それは何かというと、それは予感がするときです。実に身勝手な主張で、このへんが私の説明の限界なのですが、この予感のするときは、本当に必要があるなら、クライエントさんに拝み屋さんを紹介するかもしれません。

とはいうものの、私のこれまでの治療の中で、拝み屋さんを紹介したケースは一度もありません。私は、悪霊が居るとか居ないとかのレベルで霊をとらえているわけでなく、それよりも自分と出会うことに霊的な意味合いを強く感じているからです。これについては下記のセジについてで詳しく述べています。

私は、このように霊的なものをとらえています。霊的なものはほっておいてもいい、怖がるのではなく、それを活用していきましょう、というのが私のカウンセリングのスタイルです。カウンセラーはエクソシスト(拝み屋さん)にはなるな、ということです。

□霊性(セジ)について

沖縄にはユタと呼ばれる拝み屋さんが居ます。ユタの世界では、人にはそれぞれ霊の位(レベル)があって、身分や外見では、位が高いとか低いとかは分からないものだとされています。この霊の位のことをセジと言います。そしてセジは、日々の生活の中で、自分が自分に出会うたびに上がっていくと言われています。

セジ=霊性というのはいったい何なのでしょうか。セジをひも解く鍵は、自分が自分に出会うというところです。自分が何か霊的なものに出会うということではなく、自分が自分に出会うことが最初にあるのです。その結果、それは霊的な出会いだったかもしれない、と後から気づくわけです。この逆の順番はありません。(これは相談者の方が、治癒されていく過程とほぼ同じ道筋です。)

もし霊的な出会いが先にあった場合は「それはあなたの不安の仕業(しわざ)かも知れないよ」ということです。

先に心霊現象の話をしました。そこには人間の不安が大きく関与していました。それが予知的な現象であるときは、不安だけでなく霊的なものが働いているかもしれないということも言いました。ここではそれをもう少し推し進めたいと思います。

ここからのキーワードとなるのは、(1)重なること、(2)小さきものであること、この2つです。

(1)重なること

たいてい霊的なものには「偶然の一致」という力学が働いています。このことをユングは共時性(シンクロニシティ)と表現しました。

彼はプラム・プディングの事件でこのことを説明しています。A氏がB氏からプディングをご馳走してもらった。10年後、A氏がレストランでプディングを注文したら、最後のプディングが他の客に出されてしまったという。その客とは他ならぬB氏であった。その20年後、A氏はある場所でプディングを注文し、ここにB氏が来ていればね、と語った瞬間B氏が部屋へ入ってきた。

これがシンクロニシティです。遙かな時空を超えて、事象がたびかさなることです。ここでは、A氏とB氏とプディングの関係に目が引かれますが、そこはそれほど重要なことではありません。ではどこが重要なのかと言うと、偶然の一致が時を超えて「重なった」ということ。この重なりとは霊性が活性化していることに他なりません。

プディングという現実の事象を借りて、A氏あるいはB氏の霊性が相互に刺激を受けて活性化しているということです。A氏だけの霊性ではなく、そこにはB氏の霊性も深くかかわっているのです。そういう意味では霊性も人間関係と同じで、自分一人だけの個人的なものではなく、他人との相互作用のたまものなのでしょう。

さて、この事件を経験したA氏が、未来や過去に思いをはせるのでなく、いま現在の時間の中で、この「重なっている」という感覚に身を置くことができると、B氏、プディングとは全く関係のない、しかしそれはA氏のアイデンティティを揺さぶる日常の出来事に遭遇するでしょう。これが霊的な出会いです。A氏にとって、B氏やプディングは単なる素材でありそれが何かを象徴しているわけではないのです。

偶然の一致は、単に一致しただけでそこには霊的なものはありません。共時性は単なる偶然にすぎないのです。それが自分にとって霊的なものになるかどうかは、その重なりを自分が日常の生活の中で、日常の人間関係の中で、その重なりを意味する出来事に気づけるかどうかにかかっているわけです。

この重なりが起きているときは、耳をすましながら生活するのがいいのです。せっかくのチャンスをものにできるかどうかの岐路に立たされているわけですから。

憎しみの対象となっている人間の大切な持ち物である長髪を呪いで断裁してやると念じた翌日、その人の髪がばっさりなくなっていて、聞くと、なんだか知らないけど切りたくなったから切ったと語ったとき、念じたことと起きたことは単なる偶然の一致にすぎません。ここに何らかの悪霊的なものが働いたわけではありません。(映画では、こういう場合、ほぼ100%悪魔の仕業としますね笑。)

しかし、このような心霊的な体験というのは重なることがあります。

睡眠中、金縛りになって、窓から入ってきた怪物にお前を殺すとの首を絞められたり、
翌朝、その怪物の大きな手形が窓にべったりと付いていることを発見したり、
自分のベッドが何日もガタガタと揺れていたり、
机の上のものが何もないのに急に移動したり、
UFOや幽霊を目撃したり、
親友が自殺した時間に空中から金色の光が降ってきたのを目撃したりするときがあります。

これらは、その事柄には何の意味もありません。何か偶然の要因が働いただけでしょう。そういうこともあるよね、そんな感じです。これらのことで注意することは、それが何を意味するかではなく、こういう現象が「重なって」あなたに立ち現われているというところです。ここには大いに霊的な力が働いています。呪いとかの善悪の問題ではなく、それを超越した力学がそこには働いているのです。

これは、要するに、重ねていけるパワーが、あなたのそばに来ているということです。あなたは、それに乗って、日常に帰っていけばいいのです。そうすると、あなたは、その日常の人間関係の中で、重要な霊的な体験に出会うのです。

偶然の一致や心霊的な事柄に過剰な意味付けをしないことが大切です。間違っても、それが何かのメッセージであるなどと思わないことです。何か重なってるね、とだけ思いながら、日常生活の中で忙しくしている瞬間に、我を忘れている瞬間に、その意味はわかるでしょう。それは何かのメッセージとして降ってくるわけでなく、あなたの生き方の中に立ち現われてくるのです。この遭遇こそが霊的な現象であり、あなたのセジが一つ上がるのです。

(2)小さきもの

不安が減少すると心霊現象も消えていき、その過程で小さきものが残ったりすると先に書きました。この「小さきもの」に宿る霊性には希望があります。心霊現象がなくなっていく過程とは、治癒が進んでいく過程と読み換えることもできます。その中から現われてくる小さきもの。それは、怖れや怒りの中では化け物だったものが、本当の姿を垣間見せたことを意味します。

それにはユーモアがあり、可愛さがあり、ドジな雰囲気が漂っているかもしれません。懐かしさがあるかもしれません。
霊性に備わっている3つのものとして、a. ユーモア b.愛おしさ c.懐かしさ があります。

先日新聞を見ていたら、出光美術館の禅画の展覧会の広告が載っていました。仙がいという臨済宗の僧侶によって描かれた禅画です。その中に腹をつきだしてのけぞって笑っている和尚さんの絵がありました。禅のエッセンスとしての、この達観した笑い、ユーモア。そこに描かれたユーモアには「小さきもの」が持つ独特の雰囲気と同じようなものを感じました。上の3つの条件が、この絵にはありました。

霊的なものにはユーモアや懐かしさが必ずくっついています。

ゲゲゲの鬼太郎にでてくる妖怪たちを見てください。怖いというよりユーモアがあります。なんか憎めない妖怪たち。それらに出会って右往左往する人間たち。この構図を、妖怪と人間の関係にもってきたところに、水木しげるの霊性が本物であるように思われます。彼が天才と言われる所以(ゆえん)はここにあるのだと思います。人間が恐れおののいている妖怪たちは、実は人間以上に人間的である。妖怪とは人間そのものなのだ。彼はそれをよく知っているのです。

この構図はホラー映画とは全く別の次元なのです。霊性とは、どんどんと人間の中心に近づくこと、と定義したくなる私がいます。なぜこの思いに捉われるかというと、心の悩みを相談されている方の治癒過程にとても似ているように思うからです。

東北地方に残っている伝承に座敷わらしという小さなお化けがいます。私はここに、小さきものの一つの在り方を見ているのです。

インナーチャイルドのセッションをしていると、化け物が出てくるときがあります。頭部が立方体の木製で、のっぺらぼう、ちゃんちゃんこを着て下駄をはいている童子(わらし)。彼らは頭部をお互いにぶつけてカーン、カーンと高い音を響かせて遊んでいます。顔の半分が削り取られてしまった童子。彼は半分の顔に残った片目をパチパチさせながら人なつっこい笑顔でこっちを見ています。ここには、怖さはありません。「おれたち、生まれ損なってこんな顔だ、ドジだな」という笑い。そこには化け物に対する愛おしささえ感じます。

座敷わらしは生まれることを望まれなかった子どもたちです。この世で生きることを許されず、山に打ち捨てられたり、川へ流されたりして、この世から抹殺(まっさつ)された子どもたちです。手足が未熟な姿で生まれた蛭子(ひるこ)。海へ流され辿り着いた先で恵比寿さまとして復活を遂げる。

ここにも、座敷わらしの霊性の高さが示されているでしょう。蛭子は、いったん死んで座敷わらしとしてよみがり、それが人々の恵比寿信仰まで昇華した姿なのでしょう。

重なることと小さきもの。

この2つだけが霊性を示すものではないでしょうが、いまのところ、私には、これらのものは日常の生活に大きく関与してくる霊性だと思っています。日常で出会わない霊性などつまらないものだな、と思います。

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