夢のアトサキ

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ここではカウンセラーの高間が見た夢についての話をします。

■動けなさについて

このあいだ夢を見ました。

そこでは私は会社員で、チームを組んで働いていました。
私も専門職で、特別な仕事をしていたのですが、
同僚に仕事を持っていかれてしまいます。
自分の仕事を取られてしまいます。
同僚は、その専門ではないのに、なぜ自分の仕事が取られるのだ、という理不尽な
気持ちを強く抱いていました。

そうこうしているうちに、すべて私の仕事がなくなってしまい、
上司も他のチームメンバーも私に大変冷たくあたります。

会話も成り立ちません。

私は、何かを言うかわりに、
仕事をもっていった同僚に恨みの冷たい視線を送っています。
同様に、程度の差こそあれ、同僚やチームメンバーにも、押し黙って冷たい視線を送っています。

しかし彼らは、そんな視線はなんともないようで、
まるで私のことはなかったかのように振舞っていました。

なかったように振舞われて、私はとても傷つき、
硬く貝のように閉じこもっていきました。

○ ○ ○ ○

とても、後味の悪い夢だったのですが、この夢にはいろんな示唆が感じられました。
どこに焦点を当てるかで、夢の扱い方も違ってくるのですが、
私としては、この夢から目覚めたあとの実感として、
言葉を発することのできない、
ただただ恨みの視線を他者へ向けるだけしか
成すすべのない自分を感じていました。
これは、どうなんだろうなあと思いをめぐらしていると、

「動けなさ」

という言葉が降ってきました。
この「降って来る」という現象は大切に取り扱ったほうがいいですね。
ということで、この視点で私の見た夢を眺めてみましょう。

動けなさというのは、選択できる余地が少ないことを表します。自由度が少ない状態です。自由に動けない分、自分の世界が狭くなることですので、これは生きづらさにつながり、こういう狭い自由を感じ続けていると何かの症状の発症につながる可能性があります。この点では、動けなさというのは、好ましいものではありません。

しかし、見方を変えると、動けないために、「動かずにすむ」ということでもあります。周りの世界が危険であるとき、例えば自分がサバンナでライオンに狙われたシマウマだったとすると、下手に動くと命を狙われます。こういうときはじっと動かないことが求められます。

実際のカウンセリング現場での話をします。

カウンセラーはクライエントと話をしているとき何をしているかというと、常にクライエントのアセスメントをしているのです。

このようにクライエントが話した。それは背後にこういう気持ちがあるからだろう。それはクライエントのこういう部分から出てきているのだろう。確か、以前にも似たようなことを言っている。これはクライエントのひとつの個性なんだろうか。そのことについてクライエントはどのように評価しているのか。もし、こういうことだったら、カウンセラーとしてはタイミングをみてこっちへシフトさせていかなければならない。しかし、別のことだったら、それを治療に使えるかもしれない。

カウンセラーは、クライエントを目の前にして話をしながら、常にこういうアセスメントをしているのです。このアセスメントは、さまざまな理論に基づきながら行います。カウンセラーの得意とする分野の理論をもとに仮説を立てていきます。(私は、今は、トラウマ理論、発達理論、家族システム論、夢分析、身体論などの理論をベースにしています。)

さて、ここで問題なのは、カウンセラーは自分のカウンセリングスキルをアップさせるために、論文を読んだり、ワークショップに行ったりします。これは好ましいことではあるんですが、これがカウンセラーを縛ることも往々にしてあるのです。つまり、ある論文に縛られて、その状況を見誤るということです。縛られるというのは、さきほどの夢の「動けない」ということと同等です。

精神科医の中井久夫は、面接の前夜には何か特別な論文を読むことは控えていると言います。それによって自分のセンサーが狂うから、目の前のクライエントを見誤るから、と言っています。論文などは、スキルアップにつながるものですが、それは使いようによってはカウンセリングに逆効果に働くということを彼は言っています。

つまり、アセスメントには理論が欠かせませんが、それに縛られて、その理論の視点からしかクライエントを見ることができなくて、目の前のクライエントを見失ってしまわないようにという警告として、私の夢が出てきた、と解釈もできます。

つまり、あんまり頭でっかちで面接に向かうと、クライエントのためにならないよ、ということです。

さて、もう一つの動けなさ、ライオンに狙われたシマウマの場合です。この動けなさは歓迎すべきものです。カウンセリングの現場のことを考えた場合、例えば、感情表出が激しすぎて日常に影響が出てしまいそうなときは、クライエントのほうで、無意識に調整することをします。つまり、カウンセリングにある種の停滞を作るのです。感情的な話からそれるような、たいしたことのない話や、頭で考えながら話をします。これはクライエントが自分で自分を守っていることなのです。

この理解がカウンセラー側になく、あくまでも強引に感情へ訴えるセラピーを続けた場合、クライエントはそのカウンセリングへ来なくなるか、症状が大きく悪化します。この場合、カウンセリングという場にとっては、「動かない」ということが重要なことになってきます。そしてクライエントが動けるようになるまで、カウンセラーはじっと待つという姿勢を取るのです。待ったほうがいいかどうかというのは、これまでの過去のカウンセリングの流れがどのようにここまで流れてきたのかを見渡すことで判断がつくと思います。

カウンセリングの現場では「動けなさ」を感じるのは、クライエントに対してばかりではありません。カウンセラー自身の動けなさも感じますし、その面接室での治療空間が動かないことを要請しているときもあります。

私の夢の「動けなさ」を考えた場合、
上のような2つの現象、つまり理論に縛られて自由度が減った状態と、治療空間が動かないことを要請した、これらのことが同時に起こっているように思います。
とても示唆に富んだ夢と思いました。

大切なことは、その動けなさがどういう質のものであるのか、そして、必要なときには、動けなさを破る行動をとれるか、ということです。停滞の状態から動くときは、カウンセラーが一人で勝手に破るわけではなく、クライエントとカウンセラーが一緒に破るわけです。治療空間に守られながら、手を携えながら。それでないと、動く意味がありません。

さて、動けなさということで思いついたのは、吃音者がどもるときの動けなさというものがあります。胸からのどにかけて重い固まりが上がってきて、一瞬にして舌の奥から先端にかけて硬直し、息が止まり動けなくなり、どもるのです。
つまり、吃音というのは、「動きたいが動けない」状態と見ることができます。そのように見ることができると、吃音者の日常が、そのようなダブルバインド的な状態になっているのだ、とアセスメントできます。

吃音者にとって、動けないように縛っているものは様々です。しかし、その根底には動きたいという気持ちがあるのです。ここは押さえておくべき点です。単に不安障害をベースにした治療方針でリラックスできるようになればいい、という行動療法的なアプローチをしても実りは少ないです。

日本語ではこういう使い方はしませんが、「吃音する」という視点に立つと見えてくるものがあります。吃音したいということと、動きたいということは同じことなのです。動きたくなければ吃音はしません。吃音は、スピリチュアルな部分で、健康度が高い症状です。そのため、吃音すること自体には、世界観の障害は全くありません。もし、どこか日常生活に安全を感じることができないような印象を受けるなら、それは吃音する部分とは違うところで傷を負っているのです。カウンセラーはそこへ介入すべきです。そこを間違えて吃音のことばかりに目が行ってしまうと、さほどの効果もない治療が延々と続くことになります。

私が見た夢から吃音の話に行ってしまいましたが、自分のことを振り返ると、「動けない、動かない」ということは、私の過去50年の長いテーマであるように思います。動けないという感覚が、動かないという意識へ変わっていくこと、これですね。たぶんこれをやり尽くして私は死んでいくのでしょう。

山はそこに在るだけ。
山は動けないのか、動かないのか。

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